27 大島紬の島で1

男と着物 - 回想録 -

投稿者:ウエダテツヤ

2006年3月に奄美大島に移住した私。約2年間をそこで過ごした。

奄美大島は亜熱帯の気候で花粉もなく寒さが苦手で軽度の花粉症がある私にとってはとても居心地のいい場所だった。気候だけでなく実際の仕事環境も変わった。着物小売店では帰宅が21時や22時だったのに対し(それでも入社当時より早くなった)県の機関だった大島紬技術指導センターは17時に終わる。家についても17時過ぎ。しばらくの間は何をすればいいかわからず、一人で海を眺めたりしていた。「やる事はいくらでもある」と前職の大先輩に言われたけれど、これまで会社から与えられた業務があっての私だったのだろう。解放感があった引っ越し当初から時間が経つにつれ、解放されてやるべき事が分からなくなった。とにかくゆったり感じられる時間に沈んでいった。

「ゆったり感じられる」と表現したのは、実際にはそうではない現場もあるからだ。大島紬製造従事者は集中した時間の流れにある。デザインから半年以上かけて製品化されるので一見ゆったりしているように思うけれど、実際やってみるとあれだけのものをそんなスピードで完成される世界は熟練者の分業による賜物。その不可欠な集中力は外側の人間からは島の穏やかな文化に隠れてなかなか見えない。もはや熟練工には自覚もないだろうけれど、当時の私はそれを分からずにいた。

島の魅せる外向きの時間に引き摺られていた一方で、当時1~2週間に一度は当社の誰かが島にやって来た。それは製品の打ち合わせや仕入れ、取引先やその先のお客様をご案内するなど様々で、私もそのたびに手伝いをした。

うすうす気付いていたが、奄美大島ではっきりしたことがある。私が相当な方向音痴ということだ。海や山をくねくねと走る道路。いつまで経っても覚えられないし、全然違う場所が同じに思える。右と思えば左が正解、左に曲がれば知らぬ景色。せっかく覚えてもしばらくすると綺麗さっぱり忘れてしまう。お陰でお客様を案内するときは毎回イメージトレーニングが必要だった。私に案内させるとロクなことはない。もはや既に道は覚えていない。

時を同じくして当社は製造子会社「奄美織物株式会社」を2006年に設立し、本場奄美大島紬協同組合にも加盟させていただいた。私は形だけの役員となった。半年後には大島紬の小物ショップもオープンした。私が当面の間店長となった。

そんな私自身は自分に対しても方向音痴になっていた。社員でもあり大島紬を学ぶ学生でもある。設立した会社の役員で小物ショップの店長。役立てることは少ないが上長もなく、不確かな解放感。現地に住むけれど現地の人ではないし、勉強しているけれど職人でも販売員でもない。新しい会社には名ばかりで。奄美のTシャツを着てお客様を案内してみても、着物を着て接客してみても、スーツを着て小物店に出勤しても私は私でない気がした。道に迷うがごとく、何者かわからなくなってしまった。

与えられた自由に困惑し、漂っていた。(つづく)

道のわきに咲くハイビスカスが印象的だった。