40 「腑に落ちる」探し

男と着物 - 回想録 -

投稿者:ウエダテツヤ

​日々着物を着るようになってしばらくは「何が正しいのだろうか」と考えていた。ここで言う私の「正しい」とは理に適っているという事と慣習含めて一般的ということの掛け合わせ。理に適っていても突飛押しのないことや、一般的でも納得できないものはあまり選択しなかった。要するに「腑に落​​ちること」を探していた。

例えば帯の結び方でも、自分にとって最も納得できる結び方を探して試して考えることを繰り返していた。帯を左右どちらから巻くか、結び方のポイントはどこかなど、人によってはさして疑問に思わぬことが気になって夜中に飛び起きて結んでみたり、知り合い同士で意見交換してみたりした。他人と意見が食い違っても自分なりの答えを出せればそれで良かったし、自分への最適解を考える時間は着物と向き合っている気がして、また自分が研かれる気がして楽しかった。

例えば私が帯を時計回りに巻くのは「関西・関東」などの地域性(ネーミング?)ではなく、二つの理由がある。一つは(たまたま?)小売店に就職した時に教えて下さった方が時計回り方向で教えてくれたからでそれ以来の習慣的な理由。そしてもう一つは腰ひもを使わないことにも関係しているのだけれど、着方についての意見交換をしている中で「図(適当でごめんなさい)のように巻く方が自然ではないか」と言われ至極納得したことに起因している。

巻物の紐みたいなイメージ

また、帯を折りたたむように結ぶ理由は帯を出来るだけ長持ちさせたいのと、そういう結びが出来る自分に満足感を感じていたということにある。今やそんな気持ち云々というよりも巻き方と同じように習慣になっているのだけれど、初めに教えて下さった方(巻き方の人)からも似たようなイメージで教わった気がする。とにかく、今思えば堅苦しいとも感じられる自分なりの整合性を考えたり、知ることが楽しかった。ちなみに他人についてはほぼ無関心だったので聞かれない限りは他人のやり方も考え方もあまり気にしなかった。

実は心のどこかでもっと単純でいいんじゃないだろうかという気もしていて、それは後の製品に繋がるのだけれど、まだずっと先のこと。当時は(今も?)面倒臭い男だったけれど、その過程を通らなければ今でも感じなかったことがあったように思う。

着物が好きというよりも、着物を楽しめていた。考えて着ることが楽しかった。「これが正しいのだろうか、違う方法はないのかな。」それが私を少しずつ形作っていった。