寄稿122 高瀬川と木屋町通 / 京を歩く

京を歩く寄稿記事-ことばの遊園地-

寄稿者:橋本繁美

静かなせせらぎの音を立てながら流れる高瀬川。その川べりの桜たちが花のトンネルをつくり華やぐ木屋町通。ここは慶長16年(1611)、角倉了以によって計画され、長い歳月をかけて開通した高瀬川は京と大坂を結ぶ運河だった。その出発点は二条通、終点は淀川に接する伏見港、全長およそ10㎞におよぶ。高瀬川には舟の反転や荷の積み降ろしのため、9箇所の舟入りが設けられていたが、一之舟入だけが現存する(木屋町二条下ル)。江戸時代の初期から大正期まで運航されていたという「高瀬舟」。高瀬川が物流幹線になるにつれ、東畔に繁華街として開けたのが木屋町。森鴎外の『高瀬舟』の舞台にもなったところだ。大正期に高瀬舟が役割を終えた頃、木屋町通は大きな変貌を遂げて歓楽街となっていった。ことしもライトアップされた夜桜が雑踏のなか、一段とあざやかに映えていた。

角倉了以といえば、1608年に大堰川(保津川)を舟が通るように開削し、その後、この運河を通し、京都の発展を支えた二つのインフラを造った嵯峨の富豪。現在はホテルになってしまったが、旧立誠小学校の前に角倉了以の顕彰碑がいまも残る。余談だが、その立誠小学校が廃校になったとき、そこを京都のアートカウンシル、文化や芸術の担い手を育むところにしようと画家や作家、デザイナーなどクリエイティブな面々が集まって「京都アートカウンシル」が結成された。その拠点が旧立誠小学校だった。私も高瀬川に入れる喜びで長靴を買って、春の桜まつりや、夏の高瀬まつりには地元の人々と一緒に高瀬川の掃除から始めた。川底からは自転車や散髪屋のネオンサイン、なぜか便器など大型ゴミが出てきてびっくり。誰が投げ捨てたのか、あまりにも腹が立つので、仲間たちとそれらを積んで現代アートに仕上げた記憶が残る。校舎を講演やワークショップに使い、高瀬川に作品展示をした。子どもたちに手づくりの灯篭を作ってもらい教室に作品展示した後、灯篭流しをしたりして楽しんだ。芸大生も巻き込んで似顔絵コーナーもつくり、みんなで盛り上がった時代があった。
話を戻そう。文献によると、木屋町通はかつて樵木町(こりきまち)通と呼ばれていて、この道筋に沿う町々には当初から材木、柴、薪、炭を商う店が軒を連ねた。いわゆる「木へん」の町、さらに「米へん」の問屋も増加し、油屋、醤油屋、酒屋などの「さんずい」も店を連ねるようになったそうだ。
四条通を下がると、喫茶「フランソア」がある。桑原武夫や藤田嗣治ら文化人が通った老舗の喫茶店。そして餃子の店「眠眠」がある。高瀬川の流れを眺めながら食事ができるのがいい。2階は京都アートカウンシルの打ち上げで盛り上がった店だ。さらに下がれば、小粋な日本料理の店やおしゃれな居酒屋などが並ぶ。木屋町高辻、松原まで老舗料亭が軒を並べている。五条通を越え、正面通の公園のあるところまで来ると、あの「任天堂」の発祥地もすぐそこ。そして七条通に出て木屋町通としては終わりとなる。

一之船入
旧立誠小学校